店を出ればセンチメンタルな気分

 学生時分のねぐらたるアパートの近くにある洋食処へ、長らくご無沙汰していたけれどもお伺いした。なあ名古屋の子が来てくれたでと迎えてくれたおばちゃんは、改めて四方山話に興じていると黒柳徹子に似ていると思った。厨房で黙々と調理なさるおっちゃんは、相変わらず開高健そっくりの風貌。黒服の多かった気もする仕事着が、今日は爽やかなサックスブルーのオックスフォードボタンダウンシャツのペアルックだったほかに、私が足繁く通っていたあの頃と変わったものがあるとするならば、ただそれだけを注文するのが精一杯だった定食に中ジョッキを付け足すいくらかの余裕が当方に生まれたことくらいだろうか。自家製オレンジジュースとして提供されている飲み物を、食後またしてもコップ1杯おまけにいただいてしまう。潰した缶の蜜柑を残りのシラップと合わせてから甘味を微調整したような、そこはかとなく風変わりで懐かしい味。細身のストローの直径では果実が詰まってしまうものだから、時々は空気を送って逆流させてやらないといけないというのも含めた一切が愛くるしい。

台湾逍遥の記

 昭和14年の秋、内田百閒が勤め先である日本郵船所有の大和丸に乗船し、神戸を出港、台湾本島の基隆へ上陸するまでには、4日を要したという。中部国際空港台湾桃園国際空港間はたった3時間のフライトだから、航海上の百閒よろしく「ぼんやり」の贅沢さに浸る余裕もないといえるが、旅の予習のために頁を繰っていた旺文社文庫版は持参。

 現地で水牛を見かけては食欲に駆られて、そのすき焼きを所望するような百閒先生の思考回路には、やはりにやつかされる。水牛云々の雑感を披露し、食肉の要諦について語ってみせる一節では、「豚は生まれた時から人に食はれるにきまつてゐる様であつて、その外に使ひ途もないであらう。若し豚に宗教があるなら、死後の生命は人間の肉体に宿ると云ふ事になつてゐるに違ひない」とあくまで素っ気ない。このくだりを何気なく読み返していたら機内食が提供されて、アルミの蓋を開けてみると薄切り肉が甘辛く炊かれた豚丼だった。ありがたく胃の腑に収める。缶入りの台湾啤酒をちびちび飲んで気分上々。

 滞りなく入国の手続きを終え、到着ロビーに向かう。事前に聞いていた引率者の目印を探すと、橙色のベストを着て待ち受けていたのは山村紅葉さんに似た、気さくなおばちゃん。乗合バスで台北市内に移動、さながら車中は日本語が達者な紅葉の独演会だった。投宿先のホテルで下車する。

 地下鉄を主たる移動手段として、徘徊を開始。乗車の際には紙の切符ではなく、指定の金額が記憶されたトークンを使うのだが、その昔、賭け事の手ほどきを受けたドンジャラの付属コインを彷彿とさせる形状である。

 台北101の地下にある《鼎泰豊》の支店へ。送迎のみならず、各種の仲介サービスも任とする2時間サスペンスの女王から受け取っていた手書きの予約票を提示すると、自動的にコースが開始され、小籠包をひたすら食べた。大瓶の台湾啤酒クラシックを飲む。美味しい。

 誠品書店の信義店に立ち寄る。日本の某所では円に換算しても倍を超す値が付けられていた、統治下の新聞広告集成を落手。統一時代百貨の台北店に入っている無印良品を視察する。レイアウトや客層は言うまでもなく、値下げの赤字ステッカーを貼られた、売れ行きが芳しくない洋服の種類さえ日本と何ら変わらない。既に夕刻、退勤時に賑わうデパ地下の様子に和む。

 適度な風のある気候で、陽が落ちてからもあてどなく歩く。ずんぐりした体躯を揺さぶるように動くチャウチャウを目撃。おやじさんが中華鍋の油にお玉で円を描きつつ揚げる甘い里芋とか、若い夫婦が営む出店のスパイスをまぶした鶏肉とか、買い食いして臨江街夜市を回る。宿に戻った途端、意識を失う。

 二日目。昼頃、新幹線(高鉄)で南下、台中へは1時間の道のり。目下開発中と思しき郊外にある高鉄台中駅から、本数の少ないローカル線に乗り継いで市街地に入る。いかにもという感じの彰化銀行本店の威容を仰ぎ見、大木が軒先に育っている珈琲店に感じ入る。

 複数冊ガイドブックの類を用意しながらも真剣に目を通さなかった癖に、出国の間際、空港の書店ではどさくさに紛れて『BRUTUS』の増補版台湾特集をレジへ。台中の項目で頁が割かれている、台中市第二市場に向かってみた。迷路のように入り組んだ場内は、青果、鮮魚、精肉と、鼻をかすめる匂いが10秒ごとに移り変わる。《山河魯肉飯》にて、豚の角煮が乗るお茶碗一膳を平らげ、『BRUTUS』を鞄に忍ばせた甲斐があるというもの。

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 蒸し暑いなかを歩き回り、お八つ時には《第四信用合作社》で、ライチと凍頂烏龍茶のアイスを食べた。もと金融機関の建物をお洒落に改築、店先にはごつい金庫扉が記念碑的に配されている。それから今度は、日本人が開業した医院の煉瓦建築を菓子店に改めている《宮原眼科》に入る。両者は系列店とのことで、確かにアイスのカップも同一なのだが、『BRUTUS』は「インスタグラマーの聖地で、おいしかわいいMYカスタマイズを投稿」と指南している。ライチと凍頂烏龍茶ではいささか地味な彩りで、盛り上がりに欠けるだろう。

 台中の中心駅はぐるりを普請中。高架化されて稼働している新しい駅舎には、古いホームを通り抜ける格好の接続なのだが、ここがまた柱の意匠といい、埃っぽさといい、取り残された感じが素晴らしい。

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 各駅停車で、新幹線の駅まで引き返す。構内のロイヤルホスト、すなわち《楽雅楽家庭餐庁》で一服。提供される麦酒が台湾啤酒で、揚げ物に添えられるカゴメトマトケチャップが「可果美蕃茄醤」表記であるほかは、商談後の打ち上げか、ネクタイを緩めてくつろぐ中年の日本人が特に賑々しく、東京大阪のターミナル駅と同じ光景だろう。他事を考えていて気づかなかったのだが、ロイホのサラリーマン諸氏が台湾啤酒の沿革を語っていたと後で教えられる。そういえば台湾滞在中、折あしく持病の結滞が始まってしまった百閒は、これを麦酒で緩和させたという。肝心の銘柄には触れておられないけれど、台湾啤酒の前身にあたり昭和14年当時、総督府専売品だったという高砂麦酒に、もしかしたら癒されていたのかもしれぬ。

 台北に戻り、夕餉はホテル併設の閑古鳥が鳴いているレストランで、牛肉と葱の炒め物、焼きビーフン、小籠包、炒飯。何を食べても美味い。腹ごなしに近くを一周。夜毎、果物を売る屋台が出ている。苺が小ぶりだ。セブンイレブンで買った、台湾啤酒ハニー味を頑張って飲み切る。

 三日目。まずは永康街から青田街にかけての一帯を早足に。5、6階建てのアパートメントの谷間、聞き及んでいたとおり確かに古い日本家屋が立ち並ぶ。ちょうど国立台湾師範大学の東側。オークラの売店で土産物のパイナップルケーキ等を買う。ヌガーはオブラートに包まれ、愛らしい小箱に入っている。続いて迪化街では、你好我好で台湾啤酒用のグラス等、永興農具工廠で鉄のフライパン等。台湾全土に展開しているフライドチキンのチェーン店、頂呱呱に駆け込んで簡単な昼食を摂る。付け合わせはじゃがいもではなく、さつまいも。

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 夕方の便に搭乗、帰国する。アルコール傍らに思い出を辿るよすがにしようかと、香辛料を加えたしぐれ煮のようなビーフジャーキーを購い、スーツケースに詰め込んでいた。阿呆な話だが、輸入禁制品であることも碌に確認しておらず、動物検疫の窓口に出頭、没収してもらう。申し訳ございませんが焼却処分にさせていただきますと、却ってこちらが恐縮してしまうような担当官の方に、農林水産省発行の小冊子をいただく。家畜伝染病予防法に基づく処置の由、勉強になる。旅は肉に始まり、肉に終わった。

風の海峡を歩いた日

 海底トンネルを潜り抜けると下関。会食ではみな酩酊いちじるしく、パナマ運河式閘門が云々、宝塚歌劇の公演といえば云々、「中学生日記」は東野英心で云々、めいめい好き勝手なお喋りにふけって、その場のスナップ写真すら撮り忘れている始末。翌朝は唐戸市場へ行き、お鮨を1貫から選りすぐりできるのを楽しんだ。河豚の揚げものを頼んだら、はい顔は二枚目、フライは1枚、またお釣りのやりとりに、500万両のお返しねと、売り子のおばさんが口上いっさい淀みなく大盤ぶるまいで圧倒された。

 海峡を隔てた対岸に渡るため、関門連絡船に乗る。曇天で、わりに冷え込む日だったが、平生このような機会がないものだから、その珍しさに吹きさらしの甲板で踏ん張っていた。尻に力を込めてベンチへ身をあずけ、襟巻に顔をうずめて、乱れ髪になりながら水上を高速移動、ものの5分であっけなく門司港に到着。

 つい先の秋、これもやはりどんよりとした一日だったが、地ビール片手に跳ね橋を渡ったり、畳みかけの出店を冷かしたり、煉瓦建築の旧税関で催されている市民の方々の美術展を見学したり、少しながらこの地を回ったことがあったので、今回は散歩を割愛した。

 駅前広場の片隅に、バナナの叩き売り発祥の地を示した碑が立っている。普請中につき瀟洒な駅舎の全容を拝めないのが残念に思うけれど、殺風景な改修現場の白い囲いもお子たちの手によって賑やかに彩られ、よく目を凝らすと香具師が描かれている。半端な時間を持て余し、記念撮影用の国鉄時代の制帽を被ってみたり、お約束の駅名標がぶら下がるプラットホームを所在なく歩いたりした。

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 鹿児島本線は海辺をひた走る。赤黒の豹柄みたいな座席に腰かけ、斜面のコンクリートが剥き出しになった空疎な土地や、ごつい造りの製糖工場の脇なんかを過ぎ、そのうちに小倉の繁華街を抜けると、やがて戸畑で下車。

 もうそこには、いつも切なく愛おしく眺めたい大分麦焼酎二階堂のテレビコマーシャルのうち、「風の海峡」編でお馴染み、若戸大橋が中空を横断していた。この赤い吊り橋の真下には公営の若戸渡船の、マッチ箱みたいな乗り場がある。入口には注連飾りがあり、係員のおじさんの詰め所には鏡餅がのぞけ、お正月の残り香がした。すでに気分は、映像で素顔を晒さぬコートにシャッポのあの中年男めいてきて、念願の乗船を果たす。父親に引率された、揃ってマルコメ君のような3人兄弟がマクドナルドの紙袋を携えているほか、小ぢんまりしたデッキに人は見当たらず、のんびりと出航。

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 若松ではこれもやはり撮影に使われていた、上野海運ビルへ。踊り場に生けてある野の花に感じ入りながら、軋む階段をゆっくり昇る。吹き抜けの、ちょうど天井と底にあたる両面に嵌め込まれた色つき硝子を、ぐるりを回る通路から見上げては見下ろした。3階のカフェでブレンドの小休止、ぼんやり過ごす。石油ストーブの匂いが、思えばなんとも似つかわしい建物。対岸の山上では洞海湾の交通をさばく船舶信号が、絶えず文字を明滅させている。同じく鉄塔ふうのものがCMでもちらと写るのだが、そもそもどうしてあのような画を紡ぐことができるのだろうか。

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 有名とのクロワッサンをかじり、若松駅へと歩く。時刻表を調べると、先々の乗り継ぎの都合からしばらく待つ必要があったので、若松市民会館に足を運ぶ。館内は消防団の方々が大勢いらして、そういえば門司で祝砲らしい音が響いたり、移動中には消防車がたくさん見えたり、北九州市出初式が催されているようだった。火野葦平に関する資料室は、制服姿の皆さんが参集しているホールを進んだ奥にあった。

 遠い昔、『麦と兵隊』の書影を教科書で見かけた際、煙草の貰い火をする横顔が猿に見えるなと思ったのみで、若松の出だというこの書き手の作品を読む機会はなく、だからこの日、火野つながりで葦平と正平とがいつも混じるんだよねという同行者の声にも、ひどく惑わされた。作家ゆかりの品々を集めた場で感ずるのは、その人となりがひときわ濃く立ち現れるということだ。著作の頁を繰るのに勝るとさえ思うのは、紙上から想像して広げてゆく己の力の乏しさも大いに影響しているはずなのだが、朱の入った原稿用紙や、角が擦り切れた帳面や、手垢にまみれたペンといった現物しか発しえない固有の磁場というべきものは、きっとあるのだろう。葦平については零からの気持ちで、年譜を眺めた。昭和34年の文壇酒豪番付でめでたく西横綱にノミネートされていること。知己の人々を酒宴へ招くためにこしらえた往復葉書の凝りよう。いつもの癖で関心は傍流に逸れがちだったが、興味深く拝見した。また企画展示から、この地において「裏山書房」として活躍された、山福康政という方の存在を知る。どこか滝田ゆうを思わせる筆致で地元の暮らしを描かれており、すこぶる気になったのだが、電車の出発も迫っているということで、窓口に売られていた山福さん装画の『糞尿譚』を、不勉強を恥じるように購ってから資料館を後にした。

 JRで移動。乗り換えの折尾駅では、独特の抑揚をもって呼びかける弁当立ち売りのおじさんを見かけた。美しい三色丼のような、東筑軒のかしわめし。予定上どう考えても食べる余地がなかったので、泣く泣くこらえる。夕刻の博多着。昼間の忘れえぬ光景を追想しながらの二階堂だと、意気込んで宣言したまではよかったが、麦酒、ハイボール、酎ハイと各種しこたま続け、結局だらしなく飲み忘れてしまう。