冷や汗を垂らしていた夏の記録

8月某日火曜日
 今年またしても命令にもとづく簿記研修が始まり、業務のあいまを縫って牛歩のペースで取り組んでいる。進級したとたん膨れ上がった分量にはたじろいでしまうのだが、そういえば誠に美しい装丁をまとった新潮文庫版で休日のあいだに再読した堀江敏幸『その姿の消し方』に、戦前フランスにおける簿記の教材についての言及があった。一読いらいすっかり忘れていたのは恥ずかしい限りだけれど、語り手の私が挙げた会計士用のテキストには、やや多彩すぎる人名の数々が例題に用いられていたという。対して、こちらが手にしているのは某予備校謹製の教科書で、前の級では東京商店、名古屋商店、大阪商店と各所の都市名が採用されていたのだが、いま学習中の級だとその予備校の名前を冠した何々商店が幅を利かせている。対面した設問からいちいち妄想を膨らませる余地などあれば、なにより迅速かつ正確でなければならない簿記の世界の原則にもとるということだ。唐十郎と宮沢一朗太とムロツヨシ三者にどこか似ている講師氏の明快な解説映像を、さもしい時間稼ぎのために倍速で再生しているようでは、アンドレ・ルーシェの静謐な世界には程遠いだろう。

8月某日金曜日
 昼下がり、会議室に籠り電卓を叩くなどして確認すると、あまり好ましくない結果が判明した。いちおう定例の案件が一つ片づいたことにはなるものの、これは他方で来年への持ち越しを意味しているのだから酷な話だ。複数人で棒立ちになり、腕を組んでうんうん唸る。夕刻までになんとか気を取り直し、係長との見事な連携をもって暑気払いの幹事をこなす。方言指導の話題に盛り上がってつつがなく散会、帰り道に飲みなおす。普段の職務中、足許は真っ黒なスリッポンやら、僧侶にもご愛用の方が多いとのスポックシューズやらで適当に済ませることが多いので、丸一日きちんとした革靴を履くと靴擦れになることがある。今朝は出がけから、既にかかとが違和感を発しはじめていた。己のことながら心底いかがなものかと思うのだが、これ以上もはや耐えられぬというところで暗がりを味方にして、脱いだ革靴をぶらさげ靴下姿でみっともなく帰宅。

8月某日土曜日
 普段あまり足を運ばないあたりを遊覧する。まずは常滑の、緩やかな傾斜地を小路が巡って窯の点在している一帯を徘徊、調味料なんかを詰めておくような蓋つきの小ぶりの壺を買った。そのまま書き写すと「無公害公認NO.T-10 特選常滑焼 お料理の容器」と印刷された意匠の箱がいい。半田でカブトビールの赤レンガ建築、それから新美南吉記念館を見学。碧南の藤井達吉現代美術館で長谷川利行展を観覧して、堀江敏幸『いつか王子駅で』の装丁に用いられていた「荒川風景」の原画にお目にかかって茫然とする。夕餉には西尾の、一色漁港そば《たまりや料理店》にお伺いした。納屋を改造したふうの隠し部屋のような談話室を拝見、こちらの素晴らしい本棚の前では誰しもひれ伏さざるを得ないだろう。あいだをおいて供される料理を堪能しつつ、堀江さんが『dancyu』で紹介していた立原正秋の料理本をお借りして、しち面倒くさい刃の鋭さにちょんちょんと触れていたら読了、気づけば3時間くらいの長居。

8月某日月曜日
 もうじき60周年を迎えられるとの、愛媛松山の名店《サントリーバー露口》の記念小冊子を取り寄せて早速に読んだら、かつて一度だけ伺ったことのある折の、かの初夏の宵を思い出して泣けてくる。穏やかなマスターご夫妻のお取り計らいのもと、隣にいらした職業柄さすがと言わざるを得ない話上手な男性を軸に、複数人の雑談は清流ように収斂していくのだった。もう縁が小さく欠けてしまっているけれども我が家にも一つだけある似かよったペンタゴン底のタンブラーで、お手製のハイボールを飲む。半ば妄想が入ったようなサントリー角のCM論を聞く。今年のうちには再度お伺いしたいと誓いを立てる。

8月某日木曜日
 やはりこの時期なので人のまばらな、照明の点灯さえも間引かれた執務室には、なんともいえぬ解放感がある。勢いで進んできたいま、ある程度の図太さは涵養されたようにも思う。数年前のニューカマーのひところでさえ、どこか他所から出向されて来たんですかと訊かれたこの老け顔では、先のような構えについて表明するときまって疑われるのだが、細部への気配りの蓄積が必ずよい結果につながるとは限らぬことをなんだか判る気もするからなおさら、道標たる正吉さんの背中に翻る昇り龍に対比してのタツノオトシゴくらいの徴は刻んでおきたいのだ。プレイヤーに非対応との表示がなされてから、聴けないものとあきらめて放っていたマイルス・デイヴィスの音源が、なにかの拍子で正常に再生できるようになっており小確幸。行き帰りに聴いている。

8月某日土曜日
 京都タワー基部のちょうど球根みたいな、青い電飾の周回するラウンジなどが入る展望室から一段下の屋上ビアガーデンの、樹脂製人工芝にひしめきあう老若の畝にまじって、むかし馴染みの人々に会う。やはり数年前にも、同じような面子でやってきたことがあった。手許のおぼつかなくなっている同回生のひっくり返した酒でまるで漏らしたようになって、ハンケチで隠しながらも駅前の雑居ビルに入るチェーン店にまではしご。みな一様に、感傷に浸っている様子で。歩いての帰り道、春いらいの元立誠小学校向かい《ビートルmomo》にお邪魔する。薬師丸ひろ子フランク・シナトラスピッツ

8月某日日曜日
 目覚めると久方ぶりの宿酔で、伊丹十三よろしく冷麺を啜る。とはいえ、冷麺を名乗る冷やし中華だったのだが。街中では、そこここの辻で地蔵盆のパイプ椅子やビニールシートが展開されている。鴨涯のいつものところの、いや実はもう足繁くお邪魔していたあそこは畳まれてしまったのだけれど、とにかくあるじであった方からご教示いただいたMOTTAINAIクラフトあまたに向かう。川上嘉彦さんの、木工に真鍮の箸置きと栞を購う。夕方、日ごろの宿舎へ帰る。窓を開け放ち、扇風機の首振りだけでもう充分に心地よく、寝そべって秋の気配を味わう。